旅行したいけど行けない…コロナ禍の葛藤。
こんにちは、アヤです。ツイートした通り、少なくとも今日から1週間は実家にいることになりそうです。和歌山の自分の隠れ家バーはそれまで放ったらかし(ごめんね)でもカクテルは作りたいから、今日はブログを書き終えたら自宅でカクテル作るぞー🍸✨
コロナウイルスの感染拡大により従事されているビジネスが苦境に立たされている方には何てのんきな話だと思われるでしょうが、学生を卒業してからほぼ観光業に従事してきた私にとって“旅行”は最重要トピックの一つなのです。
8月20日から緊急事態宣言対象地域に7府県が、まん延防止重点措置の対象地域にも10県が追加されると発表がありましたね。ひとたび外に出ればコロナウイルス感染リスクに晒され、依然として「自由に行きたい所へ」行くことが出来る状況にはありません。私たちは未だに出口の見えない長いトンネルの中にいると言えます。
とはいえ、日本の現状ではロックダウン(都市封鎖)を施行されている訳ではないので、国民は感染対策に留意した上で日常生活を送る分には特に支障はない訳です。では、長らく漂うこの閉塞感は一体何なのか。
現状とルールが大きく乖離しているから…という点を除くと、これらのフラストレーションは旅行をしたいのにできないという状況に起因するものではないかと思うのです。
そもそも、どうして旅行に行きたい?
あなたは、今どこに旅行に行きたいですか?その場所で何をしたいですか?
平常時にあっても多くの人にとって「旅行=日ごろ頑張っている自分へのご褒美」位置づけであったと思います。皆「日常から離れる」ことを望んでいるから。違う場所の日常を自分の日常と比較し、新たな発見を得る旅行は「学び」であり、自分の送る日常を客観的に見つめて感謝する機会となりうる有意義なもの。
しかし未知のウイルスが広がり続ける世界的な緊急事態において、動き回ることは最も忌避されるべき行為。
ここにジレンマがあります。
ご褒美としての旅行を制限されれば、「行きたいのに行けない」ストレスが溜まってしまう。
かくいう“旅慣れない旅人”を自称する私も「旅行へ行きたい」という自分の思いに従い、8月上旬に北海道へ5泊6日の旅行をしてきました。
でもね、気づいたんです。それは自分本位だったと。訪れた場所が自分たちにとって楽しい非日常だったとしても、その場所での日常を送る人たちがいるからです。日常と非日常は別物ではなく、同一直線上で繋がっている。
私は7月末で前職を退職し、8月は北海道⇒新潟⇒神奈川と国内を飛び回るつもりでいました。けれど、北海道で困惑する地元の方の気持ちに触れて「旅行はしたかったけど、周りの人を困らせたかった訳ではないよな?」と一回立ち止まりました。新潟と神奈川に行くフライトもフェリーも全てキャンセル。
ずっと楽しみにしていた予定が全て白紙になった喪失感は何にも形容できません。「忙しくなりそうだなぁ」と眺めていた、予定でぎっしりの8月のgoogle カレンダー。今はもう遊ぶ予定はゼロ、真っ白に。それでも、自分のやりたいことを優先させて周りの人たちを困らせてしまうよりかは良い。と納得することにしました。私が乗った釧路空港へ向かうpeachの機内はほとんど満席だった…思い出すと今でも何とも言えない気持ちになります。
苦しいのは、正解がないから。誰かの正解も、私には不正解。
運動会、成人式。大事なイベントが軒並みキャンセルになっている学生さんたちも辛いはず。入学してからずっとオンライン授業で、一度も同級生に会っていないという大学生が私の身近だけでも数人はいます。私はもう大学生ではないからその視点を持つことはできないけれど、学生の醍醐味とも言えるイベントを失くして、その失望は計り知れません。一番エネルギーのある時期、心の向くままにアクティブに動けないのは酷ですよね…。
自分のやりたいことを優先させれば、多少なりとも周囲に迷惑をかけてしまう。だからと言って、周りにばかり合わせて自分を抑えなくてはいけないのか?多分この答え、どちらかが正解でどちらかが不正解ではない。白か黒ではない。ゼロかヒャクでもない。正解がわからないから私たちは苦しいのだと思います。ただ、私がこれから生きていく場所では、高齢の方も多くウイルス拡大に対してセンシティブにならざるを得ない。皆を困らせたくないと思った私は一旦この場から動くのをやめることにしました。もしかしたら見えるものもあるかも知れないと思って。まぁ、この2日間はアマプラでアニメを見てるだけでしたが…(笑)
この記述が、コロナ禍の旅行者を暗に批判していると取られても致し方ありませんね。でも私も2週間前までは超絶フット軽の旅行者でしたから(笑)
遊びに行くって何だろう
和歌山で7月末まで私を居候させて下さっていた山田先生が、オギュスタン・ベルク著の「風土学」とは何かを解説してくださったことを振り返ってみました。
同著によると、遊びとは人が住まう都市から(人の営みがない)自然へ出てくる動き。和歌山でも、ぽつぽつキャンセルが出る宿泊施設に対して、キャンプ場・野営施設が人であふれかえっていたことが思い出されます→お盆期間中も相当忙しかったようで、キャンプ場のシフトに入れなかった私が支配人に茶化されていることも想像に難くないかと(笑)
地方に住む人たちが最も恐れるのは、都市部から未知のウイルスが持ち込まれること。だけど…物事はキレイに真っ二つに分断されておらず、つながっているとしたら。「都会」と「田舎」は同じ一直線上にあり、それらを分かつ壁などないとしたら。一体どの場所であれば安全だと言えるのだろう、という思考に辿り着いてしまうのです。結果、足がすくんで動けなくなってしまった私がここにいます。
健康以上に大事なことはない
前提として、複雑な心境を吐露したかっただけので、隣の誰かの思想が私と違っていたとしてもそれを糾弾する気はありません。私自身の中にも葛藤や矛盾があります。自分の思いを忠実に文字化できているかどうかも正直怪しい。
断言できるのは、自分を守ることが周囲の人を守ることにもつながるという思いだけです。「旅行をするか否か」も含め、自分の一挙手一投足が周囲の人々にどのような影響を及ぼすか?それをふくめて意思決定をしたいところです。皆さんもご自身の体調に気を付けて、さまざまな制限の中ではありますが、大事な人との日々の営みを大事にしてください。