都会生まれが地方暮らしに憧れて実際に山奥に住まうまでの経緯

こんにちは、アヤです。

平成4年7月22日(1992年)、大阪府大阪市に生まれた28歳女です。もうすぐ29歳です。

現在勤めている観光協会を辞め、フリーランスになるまでひと月を切りましたが、

今後も過疎地の観光振興に携わっていたい気持ちは変わりません。

現在も熊野古道のお膝元である和歌山県田辺市本宮町でPCをカタカタしています。

今日は「なぜ大阪生まれの私が幼い頃から地方での暮らしを望んでいたか」「地域振興を仕事にしたいのか」

自分のバックグラウンドについての話をしようと思います。

生まれてから小学校3年生まで住んでいた町は天王寺に近く、今ではあべのハルカスやてんしばも近くにあるとても栄えた場所です。私が住んでいた当時も商店や病院等が身近に揃い、生活に何ら不自由は感じていませんでした。※

※小学校3年生の時に府内で引っ越しをし、両親は現在、大阪府堺市の住宅街に住んでいます。

それでも、とある理由から私は幼い頃から大阪を離れたいと思っており、地方での暮らしに強く憧れていました。

最近はリモート・テレワークの風潮も高まり、地方移住や多拠点生活を選ぶ人も多くなってきましたね。

現在は和歌山県田辺市本宮町に暮らしています。

街に生まれ育った私が田舎暮らしにあこがれるキッカケになった話をします。

地方への移住や多拠点生活を考えている人の何かしらの参考になれば嬉しいです。

高知県土佐清水市に住む祖母

私の母は高知県の最南端に位置する土佐清水市に生まれ、高校卒業後、大阪で看護師として働いていました。

その後勤め先の病院で患者だった父と出逢い結婚しますが、相変わらず病院で忙しく働いていました。

父も働いていたため、両親とも働きプラス兄弟のいない私は自宅でひとりでいることも多く

それを不憫に思った母は私を高知にいる祖母の元へ行かせます。

小学生の頃、一人で電車に乗ったことはなかったけど、フェリーには一人で乗りました(笑)

結果として私は小学生の頃毎年、ひと月の夏休みのうち3週間は祖母の家で過ごすことになります。

いなかばあちゃん(79)

これが私が地方移住を志す大きなキッカケとなるのでした。

夏休み、高知で何をしていたのか

特にこれと言ったことはしていないのですが(笑)

高知では祖母と叔母について普通の?日常を送っていました。

普通と言っても高知での普通は大阪での日常とは大きく違うものでした。

祖母の家の前には透明度の高い川が流れており、初めて見るアメンボがいました。

祖母宅から子供の足で徒歩20分ほどの距離にある漁港はいつも活気づいていて、

魚をまじまじと見つめていると漁師さんが「持って行って良いよ!」わけてくれました。

大学4年生の時に両親と土佐清水へ行った時のツイート

港の近くには駄菓子屋さんがあり、店主のおばあちゃんと話すのが好きでした。

他にも、叔父とところてんを作ったこと。

目の前で上がる海上花火。

→花火大会と言えば大阪の何十万人も人が集まるものというイメージが強く、花火より人を見に行くようなものだと思っていた私には、何にも遮られずに目の前で上がる花火は衝撃でした。

私の目にはすべてがあまりにも新鮮で、土佐清水での生活に魅了されていきました。

上記で書いたこと、記憶は断片的ながらも、当時の衝撃が脳裏に焼き付いて離れない。

地域の縮小を肌で感じる

大阪市内の学校に通っていた私が、土佐清水に来れた回数は最大でも年2回程度。

毎日いることができない分、たまに訪れるとその変化をハッキリ感じとれてしまうものです。

人口減少と少子高齢化による地方の衰退を。

漁師だった祖父や、一緒にところてんを作った叔父は他界。

大好きな駄菓子屋もおばあちゃんが亡くなって閉店してしまいました。

毎年恒例だった盆踊りも、運営するスタッフがいなくなった為、中止に。

空き家が増えて行き、町の活気が次第に失われていくのを肌で感じました。

当時の感覚は仕事選びのベースになった

私は大学生にもなると、学業やアルバイト等で忙しく、何年間か土佐清水に行けていない日々が続きました。

これからの仕事を選ぶ時、衰退する土佐清水を目の当たりにして覚えた「危機感」を思い出しました。

地域おこし協力隊になることも考えたけれど、

タイミング悪く持病の脳内出血が再発し、大学卒業直前の3月15日からひと月入院することになってしまいます。

急に倒れても病院が近くにない場所(=地方)で暮らすことはお勧めできないと医師に言われてしまいます。

大事な人にありがとうと伝えること

半年に一度の定期健診と、6、7年に一度の手術をきちんと受ければ田舎にいても大丈夫!ってことがわかったので2021年7月現在和歌山の山奥にいてる私ですが、土佐清水での生活体験がなければ「地方の観光振興に関わりたい」というこの熱い気持ちも生まれていなかったかも…。

ということで去年の7月、土佐清水の祖母に感謝の気持ちを伝えに行ってきました。手紙を書いている時も泣いてたけど、目があまり見えなくなっている祖母の前でこれ音読している時は本当にやばくて、大人になって初なんちゃうかぐらい声上げて泣いた。嗚咽をもらしてた。祖母=いなかばあちゃんも泣いてた。

この気持ちを伝える為だけに高知に行った

物事を選ぶ基準は自分の中にしかない

私が大学生だった時は新卒一括採用の風潮が強く、リクナビやマイナビといったリクルートエージェントに登録し、スーツを来て何十~何百の企業説明会や面接に行くスタイルが一般的でした。

でも私は結局3社受けて全部だめで、結局4月下旬に退院してから12月にゲストハウスで就職するまでの間、日本酒専門店でフリーターしてました。

周りの同級生たちが会社員として活躍しているのを尻目に、重い日本酒を運んでいる時は自分は何をしてるんだろう…と焦ったりもしたけど、ちゃんと自分の声に誠実でいたから後悔もないし、良い決断だったと今なら思える。

実際今だってフリーランス≒無職になるまでのカウントダウンが始まっているのに何もあせってないし、この道で良いんだと本能が言ってるから、結局のところ模範解答はどこにもなくて、自己対話の中にしか正解は見つけられないのだと確信を持っています。

だから皆にも他者の言うことや状況に左右されず、自分の感覚を信じて生きて欲しいなぁと思う次第です。

ゲストハウス→観光協会→?

日本酒専門店のフリーターの後で入社したゲストハウス。USJ付近の店舗で約3年弱勤務した後、和歌山県田辺市にある系列店でマネジャーとなった(2019年4月-9月)ことから、和歌山とのご縁は始まります。

ワーホリビザを使ってデンマークに行こうと一念発起し、2020年5月にゲストハウスを退職しますが、コロナ禍直撃のため実現ならず。私は宿のマネジャーだった時にバイトさせてもらっていた観光協会に連絡を取りました。そうすると、ちょうど常勤のスタッフを1名募集をしていると言うではありませんか。!

かくして紀南へ舞い戻ってきた訳ですが、7月いっぱいで観光協会職員の任期を終えようとしています。

8月は日本国内を旅行し、9月以降にまた本宮に戻ってきます!

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